手を合わせるということ
たとえそこに何もなくても
「墓じまいすることにしてん」。
青天の霹靂でした。
私が義母から聞いたのは、「墓じまい」が行われる1週間前のこと。
「えっ。いつ?」
「来週。」
その衝撃たるや。
…「墓じまい」という話題は、少し前からなんとなく出ていました。
でも、きっと私たち夫婦が数十年後に向き合う話だと思っていたんです。
しかも私は、いつか自分たちもあのお墓に入るものだと思っていました。
ところが、夫は次男なので入らないらしい。
そ……そうなの!?!?
第二の衝撃。
私の義実家のお墓には、夫のご先祖さま代々と、義兄が眠っています。
義父は長男、その父も長男、そのまた父も長男。江戸時代から続いてきたのだそうです。
江戸時代から。
だから、もうお墓の中は満員なんですって。そうだったんだ…。
義父自身は「自分はお墓なんていらんし、骨はその辺に撒いてくれ」思想の人。
義父も義母も年を取り、淡路島にあるお墓までお参りに行くのも難しくなってきた。
そういう流れで、墓じまいという話になり、色々あって急に話が進み、来週お墓がなくなるのだと…。
「じゃあ最後に私、お参りに行こうかな。明日にでも。」
そして、私と夫と義母と、3人でバスに乗って淡路島まで。最後のお墓参りをしてきました。
墓石を洗い、お花を飾り、線香を焚いて、手を合わせる。
お墓の家紋を見て、これは何の模様なのかな、なんて話したり。
「最後だし、写真撮ってもいいかなあ、ちょっと撮らせてくださいね」と言って3人で墓石を撮ったりしました。
梅雨の晴れ間で、少し暑かったけど気持ちの良い日でした。
お寺の本堂をじっくり見て、あれは獅子かな?とか、水道だけじゃなくて井戸水があったんだ!とか。
何度か来ている場所なのに、知らないことがまだありました。
私はお墓がなくなったら、もうお参りする場所がなくなるのだと思っていました。
でも、そうではありませんでした。
『◯◯家の墓』という形はなくなるけれど、お骨は納骨堂に納められる。そこに手を合わせればいいんですって。
それを知って、なんだかホッとしました。
うまく説明できないのだけど、『手を合わせる』という行為は、きっと大事なことだと思うんです。
若い頃は何とも思ってなかったけど、そういう場所は必要だなと思うようになってきました。
手を合わせて、涙が滲むこともある。
心が整うこともある。
それがお墓の前でも、納骨堂の前でも、空を見上げてでも、場所は関係ないのかもしれないな。
帰りのバスの窓から海が見えて、とても綺麗でした。
あなたは手を合わせるとき、何を想いますか?







墓じまいではないけどもボクの両親と祖母は永代供養をしていただける古いお寺の供養塔に納めさせていただきました
両親は末っ子同士、祖母も他の親族とは割と縁が遠目なのでお墓を建てるより供養塔のほうがしがらみなく納骨できた お参りがしやすく、お寺が合同法要を年2回きっちりやっていただけるので返って手厚い供養が永年続くことになったので良かったと思っています
遠い話と思っていましたが意外に早かった しかし今のお寺との良い出会いがあったので良かったです
ちなみに供養塔は小高い山の上で眼下に川の流れが見える風光明媚なポイント 眺めがよいところで両親も喜んでると思ってます
妻の実家も墓じまいを考えているそうです。
子どもたちに負担をかけたくないと。
寂しいような、ほっとしたような、何とも言えない気持ちになりました。
記事を読んで、手を合わせる気持ちが大切だと思い、少しだけ心のモヤモヤが薄くなった気がします。